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      <title>コンドラシンは語る</title>
      <link>http://kirill-kondrashin.com/talksabout/</link>
      <description>コンドラシンの関連著作より一部の抜粋翻訳を公開。半月に一度、ロシア語からおがわが翻訳します。</description>
      <language>ja</language>
      <copyright>Copyright 2007</copyright>
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            <item>
         <title>「指揮芸術について」より　ヴァン・クライバーン　２</title>
         <description>ヴァンは3番目か4番目に撮影しました。背の高い青年がいかにも緊張した顔でピアノに近づき、愛想よくわたしとオーケストラに挨拶しました。ピアノの前に座ると、ラフマニノフの協奏曲第三番の一部を弾き始めました。この時間を利用しようと思って、わたしは彼に質問を始めました。彼が協奏曲のそこやあそこをどう解釈しているか（というのも演奏者が事前に指揮者と面会することは許されませんでしたし、わたしたちには三次予選までに全部で半分のオーケストラとのリハーサルが控えていましたので）。
そこで普段は絶えず序曲を奏でたりおしゃべりをするオーケストラのざわめきが止まったのです。ヴァンはほぼ全て協奏曲を弾いてしまい、プロコフィエフのソナタ第六番、「アパッショナータ」の終わりと自作の小品を弾きました。ピアノはオーケストラメンバーの人だかりに囲まれました。「注文」が始まりました。彼も乗り気でほとんど全部に応じました。「メフィスト・ワルツ」、プロコフィエフの協奏曲第三番から断片、ラフマニノフの前奏曲等々。そのそばで彼はうっとりと微笑んで、注文者に答えては表情でここやそこの部分を強調したりしました。それが一時間以上も続いたのです。
ついに指揮者の声が響きました。「オーケストラ、持ち場に！」ここで奇跡が起きたのです！　それに答えていっせいに叫びが上がったのです。「待ってください！」「最後まで弾かせてあげてください！」等々。オーケストラは晩のコンサートのあとで撮影に参加したので、すでに朝の４時頃になっていたことを考慮すれば、クライバーンにとってあれほど特徴的だった聴衆とのコンタクトをとる力量がいかなるものだったかすぐに認識していただけるでしょう。
一番はじめのことのあとで、演奏会ピアニストとして、どこにあの催眠的、どんな聞き手をも彼の熱心な崇拝者――「クライバーンニスト」に変えてしまう力の秘密があったのでしょうか？
わたしが思うに、少なくとも２つの理由があります。ひとつは、彼の音楽に対する態度が、演奏者が聴衆に語りかけるようなものであること。
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         <link>http://kirill-kondrashin.com/talksabout/2006/10/post_18.html</link>
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         <category>1.1 演奏家</category>
         <pubDate>Tue, 10 Oct 2006 03:15:06 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>「指揮芸術について」より　ヴァン・クライバーン　１</title>
         <description>すでに国際チャイコフスキー・コンクールの第一次予選後にはモスクワの「音楽家たち」のあいだで、審査員や聴衆に強烈な印象を呼び起こした一風変わったアメリカの若者について話が出ていました。私はその当時ソ連南方の演奏旅行の最中だったので、それを私に話したのはそこへ来たモスクワっ子の一人でした。
――話によると、コンクールの参加者の中にアメリカ人か誰かが現れ、わが国のピアニストにとってかなりのライバルになっている。聴衆はすぐに彼を拍手喝采するようになった。彼がチャイコフスキーを弾いたかどうかは知らないが、彼のモーツァルトは最高だったというものでした。

わたしがモスクワに戻ったのはもう二次予選があった後で、すぐにコンクールの夜間撮影に招待されました。そこでわたしはヴァン・クライバーンと知り合ったのです。

一度でもカラー映画の撮影に立ち会った人なら分かるでしょう、その進行がどれほどの苦痛と緩慢さをともなうかということが。ライトのセッティングと装置の配置のあいだ中、「対象」つまりこの場合はオーケストラとソリストですが、長い間話に興じたり新聞を読んだりしながら照明の下で座っていなければなりません。「カメラ」とようやく掛け声が響いたときには、全員がどれほど「恍惚状態」になっていることか。それでクリエイティブなコンディションにもっていったり、そのフィルム用にあらかじめ指定された小節をいくつかうまく演奏できるよう自らを叱咤するのは困難になってしまいます。
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         <link>http://kirill-kondrashin.com/talksabout/2006/10/post_17.html</link>
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         <category>1.1 演奏家</category>
         <pubDate>Sat, 07 Oct 2006 03:26:24 +0900</pubDate>
      </item>
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         <title>「コンドラシンは語る」より　ウィーンの聴衆　３</title>
         <description>主催者は気の毒がって、彼らでピアノ奏者を探すと言い始めましたが、それでは十分に堅実な内容にならないと自分たちでも理解したようです。ラジオのアナウンスがあり、プログラム冊子にも折込みが用意され、こうしてわたしたちはマーラーを演奏しました。効果は驚異的なほどで、演奏会にはきわめて渋い顔をしてあらわれた「ムージク・フェライン」ホールの支配人が、終演後に、少し居心地が悪そうな様子でわたしに言いました。
「まあ、全体としては、バルトークだけでなくマーラーも演奏できたから良かったですね」
わたしが行動を起こしたのは、こう確信したからです。つまり、名にし負う音楽都市ですら嗜好の進退がある。見るところ、ウィーンは今、古典的、ロマン主義的なものを取り込み過ぎて、新しい現代的な音楽（もしもバルトークを現代音楽家と考えるなら）を受け入れない。彼らの嗜好はある段階で停滞している、と。――聴衆はまったく嗅覚が鋭いですね。ホールはいっぱいになりました。立見席の後ろで、そこからホールに通り抜けられないよう格子で仕切られた休憩室のようなところにも、、、立っていました。
しかしその後ろにも入場券を持った人々が立っていて――ものずごい人だかりです。その休憩室が丸ごと埋め尽くされました。でも得られた反応はわたしが期待したものとはちがったのです。多分、わたしたちのせいなのかも知れませんが、でも正直に言いますが、それは何かが違うとわたしは思うのです、、、
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         <link>http://kirill-kondrashin.com/talksabout/2006/08/post_16.html</link>
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         <category>1.4 聴衆について</category>
         <pubDate>Tue, 15 Aug 2006 07:58:44 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>「コンドラシンは語る」より　ウィーンの聴衆　２</title>
         <description>そして数日後ウィーンで同じ曲目を繰り返しました。本当のことですが、ブラティスラフではチャイコフスキーの代わりにヒンデミットを演奏したのですよ――複雑な内容です。ところが、ウィーンでこのプログラムを行うと、わたしは演奏の最中、特にバルトークのところで、ホールの聴衆とのコンタクトが失われたことを感じました。わたしが見まわすと――誰もおしゃべりをせずに行儀良くしていますが、しかし、退屈そうな目です。この音楽はここでは関心が持たれていないとわたしには分かりました。聴いていないのは演奏が悪いからではなく――ブラティスラフでよりも悪い演奏ではないと思っていました――問題のすべてはまさに音楽そのものにあったのです。ラヴェルも同じく特別な感銘をもたらしませんでした。その後、わたしたちがメンデルスゾーンの「真夏の夜の夢」からスケルツォを演奏すると――歓喜の嵐です。つまり、聴衆は保守的だったという訳です。それが――名にし負うウィーンの聴衆なのです。わたしはおそろしく落胆しました。それを遺憾とする理由のひとつは、バルトークのように複雑きわまる作品を準備するその労力に見合う十分な評価が得られなかったこと。さらに――わたしが落胆したことは、得ることができたはずの反響を手にすることが出来なかったことです。なぜマーラーの交響曲第一番だけがいつも「ウラー[ブラボー]！」を引き起こすのでしょう？――そこなのです。
この演奏会は二度行われる必要がありました。一回目の演奏会後、わたしは一晩中眠れずにいて、ふとある考えが浮かびました。翌日朝七時にわたしはうちの楽団員のピアノ奏者を呼んで彼に言いました。
「アレク、あなたは今日指が腫れたので今晩のバルトークは演奏できないことにしてください。バルトークの代わりにわたしたちはマーラーの交響曲第一番を演奏します。それで、もしコンサートの後にパーティがあったら、指になにか処置をしてパーティに来てもらってよろしいでしょうか？」
そしてただちにムージク・ハレに電話してこう言いました。
「トラブルがありまして、彼は昨日の演奏は大変でした。夜中に指がこんなに腫れてしまったので、演奏はまったく無理です、、、」（バルトークの音楽のあのピアノ・パートにはどう手を加えることも不可能なので、それは曲目を変更するために納得できる唯一の理由でした。わたしたちはそうしたのです）
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         <category>1.4 聴衆について</category>
         <pubDate>Tue, 01 Aug 2006 07:57:51 +0900</pubDate>
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         <title>「コンドラシンは語る」より　ウィーンの聴衆　１</title>
         <description>わたしはここ数日ウィーンから戻ってきたのですが、とても落胆しています。その訳ですか？　誤解しないでいただきたいのですが――それは演奏が失敗したからではないのです、、、。
ウィーンへは三年前からオーケストラとともに訪問しています。わたしたちはマーラーの交響曲第九番を演奏しました。それはとても大きな反響を呼び、その演奏によってわたしは一年後にマーラー協会から大きな金メダルを贈られ、特別なはからいで、大使館での授与式がありました。
その年の秋には最後の出演曲目を決める際にオーケストラ招聘元の興行主に頼まれ、わたしはマーラーの交響曲第一番を演奏曲目に入れました。二度も同じ作曲家ではバランスを欠くと思ったものですから、ウィーンではマーラーは外しました。ウィーンのプログラムは、わたしの観点では、とても注目に値するものでした。ペルト（音楽語法に現代的手法を使うエストニアの作曲家ですが、西側ではわたしたちのところにはその手の学校はないと思われています）の「ペルペトゥーム・モビーレ」、チャイコフスキーの――ヴァイオリン協奏曲をジュークの演奏――これは評判のためです。第二部では、バルトークの「弦楽、打楽器とチェレスタのための音楽」とラヴェルの「スペイン・ラプソディー」です。プログラムは、わたしの観点では、バラエティに富んでいて興味深いものでした。
わたしたちはウィーン訪問までの一日、ブラティスラフでこのプログラムを演奏しました。言わなければならないのは、まったく驚くほどの効果だったということです。このコンサートに居合わせた並居る音楽家、作曲家、活動家の、とくにバルトークの音楽に対する、反応[注目]は熱狂的なものでした。お祭りのような騒ぎです。
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         <link>http://kirill-kondrashin.com/talksabout/2006/07/post_14.html</link>
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         <category>1.4 聴衆について</category>
         <pubDate>Sat, 15 Jul 2006 07:55:11 +0900</pubDate>
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         <title>「コンドラシンは語る」より　アルトゥール・ルービンシュテイン</title>
         <description>わたしは今のアルトゥール・ルービンシュテインがどう演奏するかは知りません。彼は今では９０歳以上になります。わたしたちは８年前に共演しました。彼は使徒の年齢です。自分の歳を隠しているという話です。いつでも――明晰な頭脳、多言語に通じ、美しいロシヤ語で話しました。異常なほどの熱中。音楽について夢中になって話し、そのまま座るなりすぐ弾き出します。まるで子供のような無遠慮さで。異常なほど明確なフレージング[楽句の区切り方。旋律をフレーズに切る区切り方。歌詞のある声楽曲よりも、演奏者の解釈によるところの大きい器楽曲において重要な課題となる]。彼がショパンを弾いたとき、わたしはショパンはこう演奏しなければならないことがよくわかりました。彼は楽譜に書いてあることを弾くだけで、それ以上のことはしません。偉大な音楽を成就しています。どんなおそくする、悪趣味なルバートも、退廃的な独断性もなく――すべてが明白で、気品に満ちている。わたしは彼がソヴィエト連邦に来たときに一緒にショパンを演奏しました。その後わたしたちはパリで会いました。その演奏会のことははっきり覚えています。それは１９６３年１１月のある日で、コンサートの開始前にマネージャーが現れ、前日にケネディ大統領が暗殺されたと述べたのです。みな立ち上がりました。その後、わたしたちはブラームスの協奏曲第二番を演奏しました。</description>
         <link>http://kirill-kondrashin.com/talksabout/2006/07/post_13.html</link>
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         <category>1.1 演奏家</category>
         <pubDate>Sat, 01 Jul 2006 07:54:22 +0900</pubDate>
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         <title>「コンドラシンは語る」より　ヨーロッパ音楽概観</title>
         <description>ラ：今日の音楽を見渡してどのような状態か、いくつかお言葉をいただけますか？

コ：時の流れとともに、様々な国で聴衆に対する演奏家の態度と演奏家にたいする観客の態度自体も変遷することを少しお話ししたかったのです。フランスではいつだったかは音楽の国でしたが、今では辺鄙な田舎になりました。ドイツはつねに最高のレベルにあります。イギリスは最近最前線に出てきました、というのはイギリスの音楽文化は実質的に大人物を輩出してこなかったし、やはり作曲家にもいないからです（ブリテンを除いてですが、でもこれは現代です。それ以前はいません）

ラ：ピョルセルは？

コ：ええ、ピョルセルでは違いすぎてバッハともヘンデルとも比べものにならないでしょう、ヘンデルはロンドンに住んでいましたけど、、、
イタリアは――オペラの国で、現在あちらの聴衆は歌手の声の処理、声量の視点からだけオペラによく通じています。高音が出せたか、持続させられたかまたは出来ずに、猫の鳴き声やひっくり返ったりしたか。彼らはこの点については情熱的で、賛成か拒絶かをかなり荒々しく表現しますが、しかし彼らが真の音楽に通暁しているとはいえません。</description>
         <link>http://kirill-kondrashin.com/talksabout/2006/06/post_12.html</link>
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         <category>1.0 「コンドラシンは語る」</category>
         <pubDate>Thu, 15 Jun 2006 13:17:07 +0900</pubDate>
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         <title>「コンドラシンは語る」より　アメリカのアマチュア・オーケストラ</title>
         <description>ラ：アメリカには９００もオーケストラがあるとアメリカ人が言っているのは面白いですね。

コ：実際に９００あるのでしょうが、その中にはアマチュア・オーケストラも含めてのことです。あちらには音楽学部があり、楽器を習ったことのある人が多い学園都市がたくさんあります。心底音楽を愛しています。オーケストラにはある程度演奏できる人が１５人います。彼らは二、三週間のあいだに何かの作品を勉強します。そのあと二、三回リハーサルのために町から足りない８０人のプロ演奏者をつれてきて自分たちのコンサートをし、年に三、四回の演奏会を計画します。これはアマチュア・オーケストラといっていいでしょう。それが９００というわけです。もちろん実際の人数ははるかに少ないでしょう。その他の楽団は言うに及ばずです。わたしは彼らの演奏をきいて―、十分プロフェッショナルとは言えますがまあまあというところですね。ところで二級のオーケストラについてですが、だいたい似たり寄ったりです。ロサンゼルス、ワシントンはヨーロッパのオーケストラのレベルと言ったところですか、、、。</description>
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         <category>1.3 オーケストラ</category>
         <pubDate>Tue, 30 May 2006 13:16:23 +0900</pubDate>
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         <title>「コンドラシンは語る」より　アイザック・スターン</title>
         <description>そう、スターンがわたしに影響を与えたことは疑いありません。わたしたちは何度も会いましたが、わたしは彼がはじめて登場したときのことを覚えています。１９５６年に彼がやって来たときは、彼の伴奏をして［ソヴィエト］国立交響楽団と演奏しました。国立交響楽団は当時編成に問題があり、それに全体として、アンサンブルを上手く調えることがほとんど出来ませんでした。まったく酷い批評が「ソヴィエト音楽」に出て、国立交響楽団はメンデルスゾーンの協奏曲をソリストと一緒に指揮者なしで演奏しなければならなかったとか、かれらはずっと後ろに引っ込んでいたとかそんなことが言われました。これはわたしの落ち度だと思います。スターンはとても不満そうでした。わたしはそう感じたのです。彼はわたしには冷たく接しましたから。３年後にわたしたちはプラハで会いました。彼はそこで別の演奏会に出演して、一方私はプラハ・フィルハーモニーを指揮していました。彼は第二部にやって来ました。ラヴェルの「ラ・ヴァルス」です。彼は楽屋にやってきてわたしにキスしました。
「わたしにはあの時あなたを見抜けなかったということですね。これほどの指揮者だとは！　これほど素晴らしく音楽を感じ取ってオーケストラとそれを実現するとは！　彼らはいつもスノッブで演奏したがらないってことをわたしも知っていますよ、、、」
つまり一挙に胸襟を開いたわけですね。それ以来わたしたちは大の親友です。わたしはイタリアやその他多くの国で時折彼に会いました。でも全体的に、彼はわたしの、自己形成に強い影響を与えました。多様なスタイル――様々な時代の、、、</description>
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         <category>1.1 演奏家</category>
         <pubDate>Mon, 15 May 2006 13:15:32 +0900</pubDate>
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         <title>「コンドラシンは語る」より　ピアティゴルスキー</title>
         <description>ラ：あなたはピアティゴルスキーとお会いになられたのですか？

コ：ええ、彼はわたしを自宅に招待してくれました。一緒に演奏したことはありませんが、ロサンゼルスで会いました。ロシヤ式の家です。みなロシヤ語で話しました。そこにはバイロン・ジャニスがいて――彼も面白いピアニストで比較的若い人ですが、夫人と一緒でした。因みに、彼の夫人はたしか４０年代の映画スターであるゲイリー・クーパーの娘です。そして、ピアティゴルスキーと夫人、それにヤッシャ・ハイフェッツです。とても陰気な様子でした。わたしたちはおしゃべりをしていましたが、彼は一言も話しませんでした。

ラ：彼らはロシヤ語を話せるのですか？

コ：彼らはみな完全にロシヤ語を話せます。その後素っ気なく別れを告げて自分の豪華な「ロールスロイス」で帰っていきました。全体として、あまり気持ちの良い印象が残ったとは言えないですね。多分、性格なのでしょうが、付き合いやすい人ではありません。一方、ピアティゴルスキーは率直な、おそろしく面白い人で、ユーモアを交えてたくさん話しました。彼は７０歳くらいです、、、　彼が晩年のエネスクと出会ったときのことを素晴らしく話してくれました。エネスクは脊髄性結核を病んでいました。ほとんど身をかがめるようにして歩いていて、つまり地面を見て頭を上げることも出来ないのです。ピアティゴルスキーは身長がおよそ２メートルあります。
「彼はわたしと話そうとしたけれど、わたしはどうすればいいかわからなかった――とピアティゴルスキーは話しました――かがむと、気を悪くするだろう、ひざまずけば、わたしの顔は見れるだろう。その時はとてもつらい体勢で、身をかがめるようにして、なんとか話をしたよ、、、」
彼はその様子をとても滑稽に示して見せましたが、でもエネスクへの尊敬を込めつつです、、、

ラ：あなたはいつか彼と演奏したことがありますか？

コ：いいえ、演奏したことはありませんし、彼がどう弾くのかさえ耳にしたことがありません。レコードできいたことはありますが、それはさておき、あれは個人的にも楽しい出会いでした。</description>
         <link>http://kirill-kondrashin.com/talksabout/2006/04/post_9.html</link>
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         <category>1.1 演奏家</category>
         <pubDate>Tue, 25 Apr 2006 14:14:21 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>「コンドラシンは語る」より　パリ管　２</title>
         <description>早い話、わたしはショルティに賛成するところが多いのでしょうね。わたしがこのオーケストラと関わって確信したことは、たとえ相当に実力ある演奏者をメンバーに抱えているにせよ、まれに見るほど無秩序なオーケストラだということです。まったく集中力が欠如している。わたしたちはマーラーの交響曲第一番を演奏したとき、七回のリハーサルをしました。第一部ではドイツのピアニスト、エッシェンバッハがベートーヴェンの協奏曲第五番を弾きました。素晴らしいピアニストです。ベートーヴェンの第五協奏曲――これは問題ありませんから、わたしはすべてのリハーサルをマーラーに充てました。言わなければならないのは、みな容易に忘れるので、リハーサルのたび毎に同じ注意をしなければならなかったことです。うんざりされても、わたしの性格ですが、ひとつも妥協せず、しまいにはなんらか得るところはありました。その後わたしたちは四回コンサートをしました。二回はパリで、もう二回はパリの郊外で。

演奏会当日もう一度ベートーヴェンの協奏曲をおさらいしました。フィナーレで第二フレンチホルンのフレーズがあって、音符二つをレガート、ひとつがスタッカートです。その人はスタッカートひとつに、レガートひとつで吹きました――わたしは訂正して正しく口ずさみました。わたしはこの人物が集中していないともう分かりましたので、演奏前の休憩時間に楽屋裏で彼を探し出して、そのフレーズを吹くように言いました。正しく吹きました。コンサートではレガート三つにスタッカートひとつで吹きました。三回目のコンサート前にわたしは再び直させましたが、演奏ではまた間違えました。四回目はすべてを彼はもう混乱していました、それで一度もちゃんと吹けなかったのです、、、　一方、一度目のマーラーの交響曲は素晴らしい演奏でしたが、その後すべて悪化していきました。というのもみな、もう上出来だったことが分かって努力をやめてしまったのです。残念ながら、無関心と彼ら特有の自尊心（フランスで最高のオーケストラ！）とを彼らは混同しているのです。現在、ショルティの後あそこにはバレンボイムが就任しています。彼はピアニストで、指揮もはじめましたが、わたしには正直なところどんな指揮者かわかりません。第一歩を踏み出したばかりですから。果たして彼には、芸術に対してまったく我慢を知らないこの移り気なフランス人の惰性を打ち破るだけの根気があるか、わかりません。</description>
         <link>http://kirill-kondrashin.com/talksabout/2006/03/post_8.html</link>
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         <category>1.3 オーケストラ</category>
         <pubDate>Wed, 15 Mar 2006 13:58:45 +0900</pubDate>
      </item>
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         <title>「コンドラシンは語る」より　パリ管　１</title>
         <description>コ：ショルティと「パリ管」とのあいだに起きた衝突はとても特徴的ですね。「パリ管」はその五年前に音楽院管弦楽団という名で組織されました。このオーケストラはパリのその他（五つか六つ）全てのオーケストラと同じように国の補助というものを受けていませんでした。基本的に彼らは別の定職と兼任しながら、いわばブランドのために働いていたわけです。国からの補助があったのは、フランス放送フィルハーモニーだけです。平均的な仕事で十分高い給与でしたので、二つめのオーケストラを作りました。それでド・ゴールの頭に浮かんだのが、ヨーロッパで最高の演奏者をかかえる音楽院管弦楽団を基にヨーロッパ一のオーケストラを作るということでした。専用オーケストラを作ってそこへ地方や外国から多くの人を連れてきました。給料も放送フィルハーモニーより高く、最高に定められました。監督には当時かなり高齢だったミュンシュが招かれました。彼はリハーサルに特別熱心に取り組んだわけではありませんでした。いくつか演奏会を行い、これといった仕事をオーケストラとする前に亡くなってしまいました。オーケストラには監督がいなくなりました。カラヤンが呼ばれて年に二回出演しましたが、時間がないという話になりました。かれはベルリン・フィルを率いており、ザルツブルグ音楽祭も担当していたので、これ以上こちらに出ることはできなくなった。あちこち探し回って、、、そしてショルティが招かれました。ショルティ――彼は大物ですね。現在はシカゴ響の監督です。いま世界では指揮者不足で、二つの大陸でひとつづつオーケストラをもつのが当たり前になっているほどです。メータ、マゼール、ショルティ、ハイティンクなどは二つ抱えているほどです。大物指揮者はみな、大概二つはオーケストラの監督をしています。ショルティはパリで二ヶ月、その間の三週間は休みなしで行うこと、という契約にサインしました。二年間働いて、その後別れました。わたしはちょうどこの衝突の真っ最中にパリに滞在していて、雑誌で興味をそそる記事を読みました。インタビューは、ショルティ側ともう一方の――オーケストラの演奏者側のリーダーのものでした。演奏者らのショルティに対する申し立てはどんなものだったでしょう？　ひとつめは彼が義務を果たしていないというもの。二ヶ月間共に仕事をしなければならないのに、実際は二年間のうち二ヶ月分少なかった。三週間は続けて滞在し教育に従事しなければならないのに、一度として行わなかったばかりか一週間以上滞在したためしがなかったこと。二年間で三、四回の演奏会とレコードを一枚つくっただけである。これでは十分ではない。そのほかにショルティはフランス語がほとんど話せないのでコミュニケーションが取りづらく、彼の性格もきついので良好な関係を作ることができなかった、と言うのです。ショルティはフランスの、とくにパリの音楽家たちよりも芸術や音楽にたいして遥かにしっかりした考えを持つ人物です。シカゴでは、もし演奏者がリハーサルで間違えようものなら、それは彼の恥であり楽団全体の恥ですが、一方パリでは演奏者がコンサートで間違えてもみな笑ったり肩をたたいたりして嬉しそうに受け止めるのです。みな嫌々仕事をして、まったくきちんとしていません。主要メンバーのひとりひとりはもちろん実力がありますが、大多数は劣ります。ミュンシュは高齢だったので、全員から個別に話を聞けたわけではない。半分は「機械的」に彼のところに移ってきただけです。その中から辞めさせなければなりませんが、まあ今のわたしにはそれに関わる余裕はまったくありません、、、
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         <link>http://kirill-kondrashin.com/talksabout/2006/02/post_7.html</link>
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         <category>1.3 オーケストラ</category>
         <pubDate>Tue, 28 Feb 2006 13:57:32 +0900</pubDate>
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         <title>「コンドラシンは語る」より　ドレスデン・シュターツカペレ</title>
         <description>ドレスデン・シュターツカペレは、１９５０年にわたしのことを認めてくれた初めてのオーケストラですが、わたしのことは噂になっています。ええと、オーボエ奏者のことについては話したでしょうか？

ラ：ええ、このオーケストラのことだけでなく、イタリアで、、、

コ：ちょうど１９５０年にはじめてドレスデンを訪問した折に大きな感銘を受けたのが、楽団の権威をどう保つのかということを目の当たりにしたことです。曲目は第一部にフランクの交響曲、さらに別の部にもうひとつ何かでした。彼らの流儀はこうです。部がはじまるたびに吹奏楽セクションではじめの音を変化させる。それでリハーサルではどのようにすり合せていくつもりかと毎回わたしは質問を受けました。最初のリハーサルでオーボエ奏者は、わたしの要求する通りにそのフレーズを正しく反復することが理解できませんでした。しかもこのフレーズはその後、弦楽セクションその他で同じように繰り返すのです。わたしが指摘して、彼はまた間違えました。わたしはもう一度要求しましたが、彼はもう吹きません。オーケストラが止まりました。
「ひとりで吹いてください」
彼は二、三回やってようやく正しくできるようになり、全体が上手くいきました。その次のリハーサルでわたしがフランクの交響曲を練習するときに見てみると、別のグループからきたオーボエ奏者が座っていました。まあ、つまりまた全部繰り返したわけなのですが、、、　休憩時間に責任者のトレーダー氏（その当時は主席指揮者がいませんでしたので）に尋ねました。彼は尊敬すべき人物で優れた音楽家――、メンバーの一員でヴァイオリン奏者でもあります。
「オーボエ奏者はどうしたんですか？」
「交代させました」
「交代させたって、なぜです？」
「彼に不満だったでしょう」
「ちょっと待ってください。わたしが誰かに不満だといいましたか。彼はちゃんと演奏しましたよ」
「指揮者が求めることを１２０人が理解している中で演奏者一人がそのことを分かろうとしないことは、わたくしどものレベルのオーケストラにとっては恥ずかしいことです。処分しました。終身給与がありますから、彼は経済的に困るわけではありません。でも思い上がった人にはこうしてお灸をすえるんです」
こんなことがあって減給以外の方法でどのようにオーケストラの権威を守るのかということが分かったのです。これがドレスデン・シュターツカペレです、、、
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         <link>http://kirill-kondrashin.com/talksabout/2006/02/post_6.html</link>
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         <category>1.3 オーケストラ</category>
         <pubDate>Wed, 15 Feb 2006 13:56:30 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>「コンドラシンは語る」より　オーケストラのレベル</title>
         <description>オーケストラのレベルについて。一流のオーケストラと仕事をして満足なことは、、、それだけ結果が目に見えるということですね。でも一級のオーケストラは、概してうぬぼれも強いものです。あと、そのほかには、一流であることを勘定に入れてリハーサルの量をとても節約したがる。わたしはさっさと仕事を切り上げるのには慣れません。
できますよ、もちろん、一回だけのリハーサルで演奏会をでっち上げることも。しかし、それでは――わたしの意図とは別ものになります。わたしのもうひとつの顔は――教育者ですから、オーケストラと仕事をするときは、見慣れた部分に新鮮な目でニュアンスやバランス等々を読み取るようにさせる。わたしは解釈に手を付けませんが、もちろん、わたしよりもっと柔軟に解釈する人もいます。わたしはじっくり仕事をすすめることができるときだけこの点は扱いますが、概して、良い反応をもらいます。わたしが演奏しに行くのは一流のオーケストラの中でもこうした可能性を与えてくれるところだけです。それでわたしが雇われ旅芸人みたいに年二回、二、三週間訪れるのが「コンセルトヘボウ」というわけです。すでに三年分の予定が出来上がっていてすべて計画通りです。
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         <link>http://kirill-kondrashin.com/talksabout/2006/01/post_5.html</link>
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         <category>1.3 オーケストラ</category>
         <pubDate>Mon, 30 Jan 2006 13:51:14 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>「コンドラシンは語る」より　ストコフスキー　２</title>
         <description>わたしは彼とはニューヨークの家のひとつで会いました。百万長者はいつも有名人を自分のもとに集めたがります、それでそこにはわたしとテミルカーノフが招待されました。そこはストコフスキーが実際に暮らしているところでした。とても感じのよい談笑で、わたしたちはドイツ語でどうにかこうにか説明しました。音楽生活やあれこれについて質問しましたが、彼は始終何か脇をちらちらみていました。息子を待っているのだということでした。彼の家庭生活は複雑でした。すでに四番目の妻とも離婚していました。この妻との間に１７歳の息子がいて、家の外でだけ彼と会えるのでした。そしてわたしのいるそこが面会の場でしたが、彼は来ないようでした。とうとう、この息子氏がヒッピー風の格好で登場しました。たくましい若者で、信じられないほどのあつかましさでした。父親は今や彼のまわりをせかせかと動き出し、一方こちらは足を伸ばして肘掛け椅子に長々と寝そべり、父親であるこの尊敬すべき白髪の美しい老人は走り回るのでした。ウィスキーを持ってくると、こちらではいらないと言います、おいジントニックを持ってきなよ、――持ってきます。ご老体は全力で要求に答えようとしました。これには気まずい印象を与えられました。わたしまで彼のことが恥かしくなりました。この若造の鼻面をぶん殴って、誰と口を利いているつもりか分からせてやりたくなったほどでした、、、
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         <link>http://kirill-kondrashin.com/talksabout/2006/01/post_4.html</link>
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         <category>1.1 演奏家</category>
         <pubDate>Sun, 15 Jan 2006 13:50:17 +0900</pubDate>
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