「コンドラシンは語る」より パリ管 1
コ:ショルティと「パリ管」とのあいだに起きた衝突はとても特徴的ですね。「パリ管」はその五年前に音楽院管弦楽団という名で組織されました。このオーケストラはパリのその他(五つか六つ)全てのオーケストラと同じように国の補助というものを受けていませんでした。基本的に彼らは別の定職と兼任しながら、いわばブランドのために働いていたわけです。国からの補助があったのは、フランス放送フィルハーモニーだけです。平均的な仕事で十分高い給与でしたので、二つめのオーケストラを作りました。それでド・ゴールの頭に浮かんだのが、ヨーロッパで最高の演奏者をかかえる音楽院管弦楽団を基にヨーロッパ一のオーケストラを作るということでした。専用オーケストラを作ってそこへ地方や外国から多くの人を連れてきました。給料も放送フィルハーモニーより高く、最高に定められました。監督には当時かなり高齢だったミュンシュが招かれました。彼はリハーサルに特別熱心に取り組んだわけではありませんでした。いくつか演奏会を行い、これといった仕事をオーケストラとする前に亡くなってしまいました。オーケストラには監督がいなくなりました。カラヤンが呼ばれて年に二回出演しましたが、時間がないという話になりました。かれはベルリン・フィルを率いており、ザルツブルグ音楽祭も担当していたので、これ以上こちらに出ることはできなくなった。あちこち探し回って、、、そしてショルティが招かれました。ショルティ――彼は大物ですね。現在はシカゴ響の監督です。いま世界では指揮者不足で、二つの大陸でひとつづつオーケストラをもつのが当たり前になっているほどです。メータ、マゼール、ショルティ、ハイティンクなどは二つ抱えているほどです。大物指揮者はみな、大概二つはオーケストラの監督をしています。ショルティはパリで二ヶ月、その間の三週間は休みなしで行うこと、という契約にサインしました。二年間働いて、その後別れました。わたしはちょうどこの衝突の真っ最中にパリに滞在していて、雑誌で興味をそそる記事を読みました。インタビューは、ショルティ側ともう一方の――オーケストラの演奏者側のリーダーのものでした。演奏者らのショルティに対する申し立てはどんなものだったでしょう? ひとつめは彼が義務を果たしていないというもの。二ヶ月間共に仕事をしなければならないのに、実際は二年間のうち二ヶ月分少なかった。三週間は続けて滞在し教育に従事しなければならないのに、一度として行わなかったばかりか一週間以上滞在したためしがなかったこと。二年間で三、四回の演奏会とレコードを一枚つくっただけである。これでは十分ではない。そのほかにショルティはフランス語がほとんど話せないのでコミュニケーションが取りづらく、彼の性格もきついので良好な関係を作ることができなかった、と言うのです。ショルティはフランスの、とくにパリの音楽家たちよりも芸術や音楽にたいして遥かにしっかりした考えを持つ人物です。シカゴでは、もし演奏者がリハーサルで間違えようものなら、それは彼の恥であり楽団全体の恥ですが、一方パリでは演奏者がコンサートで間違えてもみな笑ったり肩をたたいたりして嬉しそうに受け止めるのです。みな嫌々仕事をして、まったくきちんとしていません。主要メンバーのひとりひとりはもちろん実力がありますが、大多数は劣ります。ミュンシュは高齢だったので、全員から個別に話を聞けたわけではない。半分は「機械的」に彼のところに移ってきただけです。その中から辞めさせなければなりませんが、まあ今のわたしにはそれに関わる余裕はまったくありません、、、